先々のことね。

今日で14回目の命日を迎えたチョボです。
見送った日のチョボの前足の感触、おデコの硬さ、すべてこの手に残っています。
今日はとても良い天気。春を思わせるような柔らかな日差しです。
チョボのウキキ♪という声があちこちから聞こえてきそうな気がします(^^)
自分自身も年を重ねるにつれ、特に最近はこれから先のことを色々思うようになりました。
今、手元供養をしている沢山の我が家の子達のお骨。
いつかはどこかに納めねばならないでしょう。
しかし、分骨して私と一緒に埋葬、もしくは散骨をしてもらえればと思っているけど、すべての骨は量的に無理な話。
なので、もっと先ではあるけど、大方のお骨は私とは別のところへ埋葬となるのでしょう。
1匹だけなら一緒にってことも可能なのかもしれないけど、都合20匹を超えると思われますからね、無理ですよね。
そんな事を考えていた時に、夫とはどうなるだろう?と思いました。
夫は浄土真宗で墓は京都にありますが、夫婦+猫たちでどこかに家族の墓を・・・と思うものの、いかんせん私はプロテスタント。
どのみち、同じ墓には入れません。
10代の頃に自分の意志で洗礼を受け、しばらく教会に通っていましたが、それも足が遠のき、結婚してからはますます行けなくなり、教保の先生は10年ほど私の誕生日が来るたびに、この家に通ってくださっていましたが、それでも行くことが出来ませんでした。
あと、この地域の昔からの習わしで神社、お寺関係の仕事が多く、いわば強制的に参加させられます。
昨日、一昨日と同じ組のご老人が亡くなった際に、送迎バスの中で聞こえてきた話は「仏教婦人会は死ぬまで籍を抜くことが出来ない」という言葉でした。
本来なら、姑が亡くなった後、自動的に次の代の人が否応なしに入ることになっていたのですが、私がプロテスタントだと知ったせいか、何も言われないまま婦人会には入っていない状態になっています。これはこれで助かりました。
死ぬまで籍が抜けないなんてことになったら、私はどうすればよかったでしょうかね?
しかし、本人の意思確認もしないまま、こういう処置が行われることにも少々疑問は感じますが。
再来年は神社の当番が9年ぶりに回ってきますが、夫亡き後もこの家の人間としてその行事に参加し、お参りすることもできないのに形だけお参りして・・・という生活を死ぬまで続ける?
などなど、よく考えてみると、子供もいない私、一人になった後は自分の生き方に沿った方法を選ぶべきでは?と思い直しました。
とどのつまりは、そういう組織から抜けるということになるので、今の「村の付き合い」というものはほぼなくなるでしょう。
そして、いろいろ落ち着居た頃に、できることなら昔通っていた教会に戻りたい。そう思いました。
死んだ時に猫達のお骨をどうするか。
猫達も夫が好きだったので、夫と猫、私と猫に分けてそれぞれ違う墓に入るのもいいかもしれない。
そんな風にも思いますが、それはこれから先ゆっくり考えていかねばなりませんね。
もしくはみんな散骨という手もあるな(笑)
特にチョボ、そしてあんずは夫大好きっこでしたから、やっぱり一緒に居たいことでしょう。
ねえ、チョボ。おかあちゃんはそう思うよ。
同じ霊園で宗教別にエリアが分かれていて、猫達も一緒にOKというところがあったら、そこにしようか?
なーんてことを、チョボに向かって呟いたのでした。
まだしばらく先のことだろうけど、お前たちも納得できるような形にしないといけないなっておかあちゃん、思います。
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